iphoneのファイル管理はifilesが良いらしい

the-cat-strikes-back「小久保さん、ガラケー解約するなんてひどいっ!」
この度、ガラケーを解約し、auのiphone1台持ちに決めた結果、社員に相当な勢いで白い目でみられているわたし。

しかし本気でiphone1台で何とかしようとすると色々と気になることも多いわけだ。「おい、iphoneよ!こんなこともできないのかよ!」というのはガラケーがあった時代は諦めがついていたものの、今は切実。

で、メーラーは以前も書いたように、ほぼ完璧なこの子に助けてもらった。今回はファイル管理の話。ファイル管理がしょぼいことのは使い出せば誰もが気づくし、なぜこんなことになっているのか全く理解できない。カメラロールの大量の写真から、「ちょっとまってね」とiphoneを気まずそうに隠して、カメラロール内の写真を必死に探す光景はだれでも見たことがあるだろう。

あれは、やってるほうもやられてるほうも、だいぶ気まずい。それに人には誰しも秘密のひとつやふたつあるのだから、むふふな何かを隠しておきたい人もいるだろう。

そこで、ファイル管理アプリの出番だ。goodreaerもifilesも入れてみて、ほぼ同じことはできるみたいなんだけど、なんか感動はifilesの方が大きかった。なんでだろ。UIなのかな。

使い方の説明なんて大変なことはすでに素敵な皆さんがしてくれてるので割愛させていただく。しかしアドレス帳の分類は何とかならんもんかね・・・ほんとappleに何とかしてほしい。実は完璧なデコメーラーちゃんだが、そこはさらに頑張ってもらいたかったりする。

殿、背中が隙だらけですぞ!!流マネジメント

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t-time_t-kanji-ta-senakasuki-tate知的産業のマネジメントで最も重要なことは「本音を言える関係性の構築」を何においても優先することではないかと思うことが多い。

最初にこれを間違えると、ブラックボックスはウィルスのように蔓延し、組織がどんどんと腐ってしまう。そして、これは簡単なようでとてもとてもとても難しい。。。

特に「下から上」への本音は、やりすぎるくらいにあの手この手を尽くさなければ引き出すことはできない。例えばその方法の1つに「隙や雑さ」がある。あえて隙を作り、「何言ってるんですか、違いますよ」「そんなことも知らないんですか?」と言わせることは、本音を引き出すトリガーになりうるのだ。

周りをよく見ると、本当に人望のある人は天性でそれをやってのけているから勉強になる。いや、勉強になるというより、羨ましい、妬ましい、という感覚のほうが近いだろうか。。

マネジメントは戦略を緻密に練り、ミーティングではアジェンダとタイムマネジメントを設定することに寄りがちだが、もう一度「本音を言い合える関係性や雰囲気を作れているか?」を考えなおしてはどうだろうか。本当に最後に抑えるべきラインだけを決めておけば、かえってコミュニケーションは雑に始めたほうが良いのだとすら思う。

"殿…背中が隙だらけですぞ!!(縦書)"書道家が書くかっこいい漢字Tシャツ

分かりにくいものは売れない世の中で…

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大塚英志の「物語消滅論」とか、東浩紀との対談の「リアルのゆくえ」で彼らが議論してたのは、最近の小説や映画などが、「マーケティングの合理性」に偏重し、動物的に消費できる、サプリメント的で分かりやすい作品ばかりになっているけど、それでいいのか?って話だった。
実は、小説とか文学を全くと言っていいほど読まないので、詳しい内容は分からないのだけど(笑)、何と言うか、世の中全般的に「分かりやすい作品」ばかりが商業的に求められていることに、それだけでいいんだっけ?というのは、最近よく思う。

その昔、私はゲームに随分と時間を浪費していて、ある時からあんまりやらなくなったのだけど、その経緯と上記の話とが、ものすごーく個人的にだけれども、つながった。

■「タイミングの競技」と「思考の競技」としてのゲーム

当時私がはまっていたゲームは大きく分けて、「広義のアクションゲーム」と「広義の知的ゲーム」の2種類あって、今考えると、それぞれの楽しさを次のように感じていたのだと思う。

「広義のアクションゲーム」とは、アクションゲーム、スポーツゲーム、格闘ゲームなどで、これらは結局、何かというと、「タイミングの競技」だと思う。リズムに合わせていかに正確に両手を動かすことができるかという、ある意味で楽器のようなものに近い。右を押しながらBダッシュをして、ここでジャンプ!P→KKP+Kを一定のリズムで「たん・た・た・たんっ」とタップする。バーチャファイターの精巧なシステム設計と、何十分の一秒という人間の動体視力の限界が試されるギリギリの戦いは、訓練すれば、ここまで人間は進化できるのか!?と感動すら覚えたものだ。(結局、毎度毎度のこと圧倒的な達人の技に太刀打ちすらできないんだけど。)

「広義の知的ゲーム」とは、RPG・シミュレーション・パズルゲームなどで、一定のルールに基づいて、あるストーリーの謎解きをしたり、戦略を競ったりするもので、いわば「思考の競技」である。「ぷよぷよ2」は衝撃だった。相殺という仕組みを取り入れたことによって、戦い方は、ただすばやく連鎖を積むということから「相手の積み方」や「連鎖の発動タイミング」を見ながら、連鎖を積みつつ、自分の発動タイミングを調整するという、明らかに高度な戦いになった。大学時代に学校も行かず、友達と夜な夜な勝負を繰り返していたのは、「思考の戦い」という中毒性に支えられていたのは間違いない。

「MYST」というゲームをご存知だろうか?大した説明書もなく、CD-ROMを入れると、何やら島のようなところにいて、指マークだけ出ている。カーソルを動かすと、どうやらモノを触れたり、画面の端にもっていけば右や左へと移動できることが分かる。ゲームの目的すら自分で探していくというドSなゲーム性に猛烈にワクワクしたし、最も私の心を鷲掴みにしたのが、ゲームの根底に、自然科学や物理現象に基づく論理的な謎解き、というテーマがあったことだ。その続編RIVENでは難易度がどんどんと増し、2週間以上、次に何をしていいか分からず、ひたすら島をうろうろしていた記憶もある。(結果的にこのゲームは、シリーズを追うごとにその世界観のキテレツさと難易度が、もはやついていけないレベルに達し、やらなくなってしまったw)

■そしてゲームは、より分かりやすくなっていった

しかし、こうした、私のようなゲームの楽しみ方をしていたものにとっては、好ましくない流れが起きていた。

「バイオハザード」というゲームは、操作方法が斬新で話題になった。誰もが最初にプレイした時、うまく走ることすらできずに、壁につっかかってるうちに、何も出来ずにゾンビ食われて瞬殺された経験がある人も多いだろう。しかし、それが、だんだん慣れてくると、最短距離で歩き、銃弾の無駄遣いもせず攻略できるようになるという、人としての「上達感」が絶妙だった。

しかし、シリーズを追うごとに次第にがっかりしていった記憶がある。「謎」が分かりやすすぎるのだ。これは謎解き系ゲーム全般に言えることだが、前述のMYST的なキテレツな難解ゲームを好む人は少数派で、当然広く大衆受けするものは「謎が分かりやすく、ヒントも豊富」なもののだ。2週間も次何をすればいいか、などと根気よくやるプレイヤーはだいぶ奇特だ。「謎」が誰にとっても分かりやすくなければ、というのは皮肉なものである。

そこで、ゲームは全体的にどんどんと分かりやすく、簡単になっていった。と思う。

バイオハザードでの具体的な例を、曖昧な記憶で語ってみる。例えば、どこかを歩いていると、向こうのほうで明らかに何かが光っているのだ。これは、おそらく光っていなくても近くに行って調べたりすれば発見できるのだが、発見出来ずに見落とす可能性があるから光っていたとしか思えない。そして、たとえば、何かを拾ったとしよう。何か水門をあけるようなレンチだったのだが、「レンチを拾った。六角の穴が開いているようだ。」と、形状まで言及するのだ。カギやレンチを拾って、それが合う場所と合わない場所があるのなんて、謎の王道中の王道ではないか。それを、これは「六角の穴が開いてる場所に使うのですよー」と教えてくれるなんて、さすがに親切すぎではないだろうか?

そして私は次第に何のためにゲームをやっているのか分からなくなった。作者の作った精巧な世界観の中で「思考の訓練」をすることもなく、ただただ時間をかけてやっていれば、「誰もがクリアできる」という大衆化されたゲームを楽しめなくなったのだ。

■衝撃のオートクリアモード導入

そして遂に、こんなものも登場した。

任天堂Wii、マリオで行き詰ったステージをコンピューターが自動でクリアしてくれる機能を導入

私にとってのゲームの楽しみは自分との戦いだった、そして時には作者との思考の戦いであり、ときには友人との競い合いだった。そういうものをすっとばして、エンディングだけを見るためにやるのがゲームなら、それはゲームという形態を取る必要がないのではないかとも思ったりする。

■分かりにくいものが売れない世の中で、本当に良い作品とは?

確かに商業的にこういう流れになるのは充分に理解できる。売れなければ採算は取れないのだから、ゲームに限らず、映画・ドラマ・音楽、全てにおいて大衆化というのは似たようなのトレンドを追っていると思う。東浩紀に言わせれば、この流れを切ないと憂う考え方自体が「もう時代に合わない」ということなのかも知れないが、それでもやっぱり、「はいそうですか」と素直に受け入れられない自分がいる。

そんな現代においても、必ず超一流と呼ばれる人たちはいて、私たちに心の底から感動を与えてくれる。その違いは何なのだろうか?スタジオジブリの鈴木敏夫はこう言う。

会社を大きくすることには全く興味がないんです。「好きな映画を作って、ちょぼちょぼに回収できて、息長くやれれば幸せ」と思っていたし、それはいまでも変わりありません。理想は「腕のいい中小企業」です。ジブリはディズニーのように世界中どこでも楽しめるグローバルスタンダードにはこだわっていません。それこそ僕と宮さんの毎日の世間話の中から、自分たちが追求してきた映像技術のなかから、結果として「時代性と普遍性」が立ち上がってくるような作品を作っていきたいと思います。
仕事道楽―スタジオジブリの現場

また、フェラン・ソリアーノ(元FCバルセロナ副会長)は「ゴールは偶然の産物ではない」の中でこのように書いている。
真の芸術品とそうでないものの違いは、耐久性および感情を呼び起こす力にある。真の芸術家は内に秘めた気持ちを作品で表現する。需要に合わせて生産したり、顧客に何を求めているかと尋ねたりはしない。芸術家はたいてい人をあっと驚かせ、感情を呼び起こす。(中略)「消費者に何が欲しいかと尋ねてそれを提供する」という20世紀のマーケティング論は、芸術や愛、イノベーションには通用しない。実のところ、21世紀のマーケティングにさえ通用しないのである。
第7章「イノベーション〜科学技術と芸術」

あえてグルーバルスタンダードを目指さず、町工場としてのジブリを貫き続けるジブリ、「ソシオ」というサポーターとその帰属意識を最も大切にし、スポンサーに頼り切らない運営方針のFCバルセロナ、どちらも簡単にはマーケティングに迎合していない。

「分かりにくいものが売れない」マーケティング中心の世界で、何を選択して勝負をしていくのか。私のような凡人とってのその課題は、きっとゼロイチの選択ではなく、どこかでバランスを取るべきことのような気もしている。

つづく。


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