「どのように考えるかを学ぶ」という言葉が真に意味していることは、どのように考え、何を考えるかを、どのようにコントロールするかを学ぶことです。それは何に注意を払うかを選び、経験から意味をどう構築するかを選ぶとことを、意識的かつ自覚的に行うことです。 - 作家デイヴィッド・フォスター・ウォレス(2005年)出展:ネット・バカ P268

■人間らしさの復権


03)ここ最近、「人間らしさの復権」という言葉が頭にこびりついている。

Googleのラリー・ペイジが人工知能を完成させる前に(笑)、わたしたちは何を考え、何を選択をし、どのように生きようとするのか、を自ら主体的に決定しなければならない。人間とは、すでに行動経済学でも語られるように、不完全でバグだらけの生きものである。もし、われわれの中の価値観が、計算科学的なものだけを尊重するようになるのであれば、それは人工知能への完全なる敗北を意味するのではないだろうか。

この漠然とした恐怖のようなものは、インターネットテクノロジーが発達してきた昨今に急激に強まっているような気がしているが、1950年代にすでにマルティン・ハイデガーがこう指摘しているそうだ。

前方に立ちはだかる「テクノロジー革命の波」は、人間を非常に魅惑し、魅了し、惑わせ、欺くものであるので、いつの日か、計算的思考だけが唯一の思考方法として、受け入れられ、実践されるようになるかもしれない。出展:ネット・バカ P304

言うまでも無いことだが、技術革新というのは不可逆的なものである。利便性を一度手にしてしまったわれわれは、二度とそれが無かった時代には戻ることは出来ないのだ。だからこそ、われわれは、テクノロジーを手にした瞬間に、自分自身がどう変わらなければいけないかを良く考える必要がある。便利だからというだけで無計画にテクノロジーの波に飲み込まれることは大変危険なことなのだと思う。

■記憶力


例えば「記憶力」。

従来の世界においては、われわれの知識量というものは当然脳の中に貯蓄されているものであった。教育においても記憶力は大変重要な能力と評価され続けていたと思うが、すでにインターネットに常時アクセスができる(スマートフォンの普及でさらに!)環境において、従来の教育における「記憶力」のプライオリティは再評価されるべきではないか。

ピーター・スーダマンは次のように言っている。

「情報貯蔵のために脳を用いることは、もはやそれほど効率のよいことではない。記憶はいまや、その瞬間に必要な情報をみつけられるウェブページを指し示す。シンプルなインデックスのようなものとして機能すべきである。」

記憶をアウトソーシングすることの是非は置いておいたとしても、われわれは、少なくともこの技術革新に対応して、自分自身が「どのように考え、何を選択するか」を主体的に決定しなければいけない。この主体的な決定こそがわれわれが人間らしく生き続けるための唯一の鍵だと考える。

■人間関係


例えば「人間関係」。

今やインターネットの普及は社会全体の人間関係をも大きく変えようとしている。社会学で語られている各世代での人間関係の変遷は、人がどういう関係性を欲しているかを学ぶことができる最高のデータであった。しかし、インターネットの普及はそれ以上の影響を及ぼし始め、そもそもの人間関係の定義すら根底から覆そうとしている。北田暁大が「つながりの社会性」と呼ぶそれは、インターネットの登場により、人間関係におけるコミュニケーションの内容そのものではなく、人とつながること自体に意味がある新しい人間関係を大量生産しはじめた。人間関係でもわれわれは、インターネット上で常時、「人とつながれる」という新しいテクノロジーを手にしてしまったのだ。この無自覚な新しい人間関係の拡がりは、従来からある本来の人間らしい人間関係へ大きな影響を及ぼし始めていると感じる。継続的かつインスタントな承認は麻薬のように中毒性があり、コミュニティのクラスター化を加速する。ともすれば、本来の人間関係を逆に面倒くさいと思うようにさせてしまう危険すら伴うのだ。

従来のマスメディアと比べて多様性が共存できるインターネットメディアが、個人が持つ人間関係の多様性を恐ろしく狭めているのは、何という皮肉なのだろうか。。

数々のIT企業が発明した、情報の発見・フィルタリング・分配のための強力なツールは、われわれが直接関心を持つ情報に、永遠に溺れ続けることを可能にしてしまった。グラノヴェッターの「弱い紐帯の強み」で言われるような、人間関係の隙は、われわれがもっと主体的に、強い意思をもって確信的に行わなければ実現できない作業となってしまったのだ。

人間らしい営為とは?


さて、「人間らしさ」とは一体何なのだろうか?一見難しそうな問いだが、シンプルにこう置き換えられるのだろう。

「人は何がどうなったときに感動するのか?」

感動や共感こそが、最も人間らしい営みなのだと思う。人間らしい行動は、精神の深いとこから湧き上がる感動を生み、関わるひとの共感を得られるものでなければいけないはずだ。

一方で人間とは、不完全で、脆く、不安定で、変化する、面倒な生き物である。ハードディスクに一度書きこまれたら完全にコピー可能なデータのようなものでは無い。同じように見える相手や、同じような状況において、同じような行動をしたとしても、結果はいつも異なる、大変に面倒なコミュニケーションの積み重ねをしなければならない。

しかし、面倒であるからこそ、「面倒の向こう側」に深い感動と共感が生まれるのではないか。正しく信号を入力しさえすれば、結果が常に同様に正しく得られる完全体の人間関係だとしたら、それは何と退屈で、感動のない世の中になってしまうのだろう。

テクノロジーの発達によって、従来われわれが意識せずに保てていた「人間らしい生き方」が危機に瀕している。スタンフォード大学の社会心理学者クリフォード・ナスは、インターネットのマルチタスクは人間の感情の読み取り方を忘れさせてしまう可能性があると指摘する。

デジタルなコミュニケーションの発達で、対面コミュニケーションが危機を瀕していることは、わたしが日々生活している中でも体感できるくらいのレベルにある。メラビアンの法則によれば、会話において、言葉自体は、相手に伝わる内容の7%にしか過ぎないという。表情やしぐさ、声のトーンなど、人間らしい要素が大半を占めているのは何とも喜ばしいデータだろうか。

草食男子やセックス嫌いな若者たち(北村邦夫著)に登場するような若者たちに共通するのは、あきらめの閾値が下がっていることである。そして、インターネットは間違いなくその後押しをして、彼らに安住の場を提供している。問題は単純ではない。市場全体が面倒なことを嫌うようになった結果、売れる製品やサービスは追随するように、面倒なことを要求しないものに変わっていった。そしてその結果、さらにわれわれは面倒なことから避けられるようになってしまうのだ。

今、われわれがやらなければいけないことは、人間らしさは面倒なことの上にのみ存在することを自覚し、“面倒くさい”の向こう側にある感動の素晴らしさを啓蒙することだろう。われわれ個人が、テクノロジーの強烈な誘惑に溺れず、より人間らしい生き方を主体的に選択できるようになるには、冒頭のウォレスの言葉にある、「どのように考えるかを学ぶ」ことが必要なのではないだろうか。

参考文献

●ネットと人間

●人間関係

●人間の行動

●面倒くさい若者

●人工知能

●参考URL