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今何をやらないか、知らない勇気を持つ。

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分岐経営では、やることを決めるのももちろん、「何をやらないか?」を決めるのが大事とよく言われます。

当然これは人の一生においても同じで「今、何をやらないか」ということを時間を使ってじっくり考えたほうがいいと思う。


世の大人たちは実に色々な人が色々な方法で私たちを煽ってくる。メディアもそうだし、あなたの上司や、友人など、身の回りの人もそう。その「べき論」一つ一つを真に受けていては時間がいくらあっても足りるわけがないし、実は大半が今やらなくていいことだったりする。

利根川進の名言にこういうものがある。「研究テーマなんてごまんとある。ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでたら、本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終ってしまうんですよ」と。

情報を知るという行為は、私たちに一定の安心感を与えてくれる。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。私たちは日々、慢性的な注意散漫状態にある。何か新しいことを発見するためには、注意深く興味対象に意識を払い続けるかが重要なのであって、受動的に摂取している大量の情報にはさして意味はないのではないだろうか。

「 今、何をやらないか」を決めることは勇気がいることだが、情報の奴隷にならずに、堂々と我が道を行く集中力を持つことが成功への近道だと思う。

分かりにくいものは売れない世の中で…

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大塚英志の「物語消滅論」とか、東浩紀との対談の「リアルのゆくえ」で彼らが議論してたのは、最近の小説や映画などが、「マーケティングの合理性」に偏重し、動物的に消費できる、サプリメント的で分かりやすい作品ばかりになっているけど、それでいいのか?って話だった。
実は、小説とか文学を全くと言っていいほど読まないので、詳しい内容は分からないのだけど(笑)、何と言うか、世の中全般的に「分かりやすい作品」ばかりが商業的に求められていることに、それだけでいいんだっけ?というのは、最近よく思う。

その昔、私はゲームに随分と時間を浪費していて、ある時からあんまりやらなくなったのだけど、その経緯と上記の話とが、ものすごーく個人的にだけれども、つながった。

■「タイミングの競技」と「思考の競技」としてのゲーム

当時私がはまっていたゲームは大きく分けて、「広義のアクションゲーム」と「広義の知的ゲーム」の2種類あって、今考えると、それぞれの楽しさを次のように感じていたのだと思う。

「広義のアクションゲーム」とは、アクションゲーム、スポーツゲーム、格闘ゲームなどで、これらは結局、何かというと、「タイミングの競技」だと思う。リズムに合わせていかに正確に両手を動かすことができるかという、ある意味で楽器のようなものに近い。右を押しながらBダッシュをして、ここでジャンプ!P→KKP+Kを一定のリズムで「たん・た・た・たんっ」とタップする。バーチャファイターの精巧なシステム設計と、何十分の一秒という人間の動体視力の限界が試されるギリギリの戦いは、訓練すれば、ここまで人間は進化できるのか!?と感動すら覚えたものだ。(結局、毎度毎度のこと圧倒的な達人の技に太刀打ちすらできないんだけど。)

「広義の知的ゲーム」とは、RPG・シミュレーション・パズルゲームなどで、一定のルールに基づいて、あるストーリーの謎解きをしたり、戦略を競ったりするもので、いわば「思考の競技」である。「ぷよぷよ2」は衝撃だった。相殺という仕組みを取り入れたことによって、戦い方は、ただすばやく連鎖を積むということから「相手の積み方」や「連鎖の発動タイミング」を見ながら、連鎖を積みつつ、自分の発動タイミングを調整するという、明らかに高度な戦いになった。大学時代に学校も行かず、友達と夜な夜な勝負を繰り返していたのは、「思考の戦い」という中毒性に支えられていたのは間違いない。

「MYST」というゲームをご存知だろうか?大した説明書もなく、CD-ROMを入れると、何やら島のようなところにいて、指マークだけ出ている。カーソルを動かすと、どうやらモノを触れたり、画面の端にもっていけば右や左へと移動できることが分かる。ゲームの目的すら自分で探していくというドSなゲーム性に猛烈にワクワクしたし、最も私の心を鷲掴みにしたのが、ゲームの根底に、自然科学や物理現象に基づく論理的な謎解き、というテーマがあったことだ。その続編RIVENでは難易度がどんどんと増し、2週間以上、次に何をしていいか分からず、ひたすら島をうろうろしていた記憶もある。(結果的にこのゲームは、シリーズを追うごとにその世界観のキテレツさと難易度が、もはやついていけないレベルに達し、やらなくなってしまったw)

■そしてゲームは、より分かりやすくなっていった

しかし、こうした、私のようなゲームの楽しみ方をしていたものにとっては、好ましくない流れが起きていた。

「バイオハザード」というゲームは、操作方法が斬新で話題になった。誰もが最初にプレイした時、うまく走ることすらできずに、壁につっかかってるうちに、何も出来ずにゾンビ食われて瞬殺された経験がある人も多いだろう。しかし、それが、だんだん慣れてくると、最短距離で歩き、銃弾の無駄遣いもせず攻略できるようになるという、人としての「上達感」が絶妙だった。

しかし、シリーズを追うごとに次第にがっかりしていった記憶がある。「謎」が分かりやすすぎるのだ。これは謎解き系ゲーム全般に言えることだが、前述のMYST的なキテレツな難解ゲームを好む人は少数派で、当然広く大衆受けするものは「謎が分かりやすく、ヒントも豊富」なもののだ。2週間も次何をすればいいか、などと根気よくやるプレイヤーはだいぶ奇特だ。「謎」が誰にとっても分かりやすくなければ、というのは皮肉なものである。

そこで、ゲームは全体的にどんどんと分かりやすく、簡単になっていった。と思う。

バイオハザードでの具体的な例を、曖昧な記憶で語ってみる。例えば、どこかを歩いていると、向こうのほうで明らかに何かが光っているのだ。これは、おそらく光っていなくても近くに行って調べたりすれば発見できるのだが、発見出来ずに見落とす可能性があるから光っていたとしか思えない。そして、たとえば、何かを拾ったとしよう。何か水門をあけるようなレンチだったのだが、「レンチを拾った。六角の穴が開いているようだ。」と、形状まで言及するのだ。カギやレンチを拾って、それが合う場所と合わない場所があるのなんて、謎の王道中の王道ではないか。それを、これは「六角の穴が開いてる場所に使うのですよー」と教えてくれるなんて、さすがに親切すぎではないだろうか?

そして私は次第に何のためにゲームをやっているのか分からなくなった。作者の作った精巧な世界観の中で「思考の訓練」をすることもなく、ただただ時間をかけてやっていれば、「誰もがクリアできる」という大衆化されたゲームを楽しめなくなったのだ。

■衝撃のオートクリアモード導入

そして遂に、こんなものも登場した。

任天堂Wii、マリオで行き詰ったステージをコンピューターが自動でクリアしてくれる機能を導入

私にとってのゲームの楽しみは自分との戦いだった、そして時には作者との思考の戦いであり、ときには友人との競い合いだった。そういうものをすっとばして、エンディングだけを見るためにやるのがゲームなら、それはゲームという形態を取る必要がないのではないかとも思ったりする。

■分かりにくいものが売れない世の中で、本当に良い作品とは?

確かに商業的にこういう流れになるのは充分に理解できる。売れなければ採算は取れないのだから、ゲームに限らず、映画・ドラマ・音楽、全てにおいて大衆化というのは似たようなのトレンドを追っていると思う。東浩紀に言わせれば、この流れを切ないと憂う考え方自体が「もう時代に合わない」ということなのかも知れないが、それでもやっぱり、「はいそうですか」と素直に受け入れられない自分がいる。

そんな現代においても、必ず超一流と呼ばれる人たちはいて、私たちに心の底から感動を与えてくれる。その違いは何なのだろうか?スタジオジブリの鈴木敏夫はこう言う。

会社を大きくすることには全く興味がないんです。「好きな映画を作って、ちょぼちょぼに回収できて、息長くやれれば幸せ」と思っていたし、それはいまでも変わりありません。理想は「腕のいい中小企業」です。ジブリはディズニーのように世界中どこでも楽しめるグローバルスタンダードにはこだわっていません。それこそ僕と宮さんの毎日の世間話の中から、自分たちが追求してきた映像技術のなかから、結果として「時代性と普遍性」が立ち上がってくるような作品を作っていきたいと思います。
仕事道楽―スタジオジブリの現場

また、フェラン・ソリアーノ(元FCバルセロナ副会長)は「ゴールは偶然の産物ではない」の中でこのように書いている。
真の芸術品とそうでないものの違いは、耐久性および感情を呼び起こす力にある。真の芸術家は内に秘めた気持ちを作品で表現する。需要に合わせて生産したり、顧客に何を求めているかと尋ねたりはしない。芸術家はたいてい人をあっと驚かせ、感情を呼び起こす。(中略)「消費者に何が欲しいかと尋ねてそれを提供する」という20世紀のマーケティング論は、芸術や愛、イノベーションには通用しない。実のところ、21世紀のマーケティングにさえ通用しないのである。
第7章「イノベーション〜科学技術と芸術」

あえてグルーバルスタンダードを目指さず、町工場としてのジブリを貫き続けるジブリ、「ソシオ」というサポーターとその帰属意識を最も大切にし、スポンサーに頼り切らない運営方針のFCバルセロナ、どちらも簡単にはマーケティングに迎合していない。

「分かりにくいものが売れない」マーケティング中心の世界で、何を選択して勝負をしていくのか。私のような凡人とってのその課題は、きっとゼロイチの選択ではなく、どこかでバランスを取るべきことのような気もしている。

つづく。


情報大爆発時代を生き延びる、シンプル思考

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100303_mam日頃から私たちはものすごい量の情報を食べているわけですが、「抽象度を上げて考えるクセ」をつけることがとっても重要なんじゃないかと思ってます。

特に情報量が爆発している今だからこそ、「そもそもこれはどういうことか?」と自分の頭で考えて、抽象度を上げた状態で脳に格納する必要があるんじゃないかと思うわけです。

シンプルに考える、とも近いでしょうか。

抽象度という言葉は、脳科学者の苫米地英人さんがよく使う言葉ですが、一文を紹介します。
経験したことのない未知の問題に対し、これまでに経験したことや知識と、抽象度の高い思考とを結びつけることで、具体的な解決策を見つけ出せる。 by 苫米地英人
また、「イシューからはじめよ」の著者、安宅和人さんはこう言います。
「人が何かを理解する」というのは、「2つ以上の異なる既知の情報に新しいつながりを発見する」ことだと言い換えられる。 by 安宅和人
どちらも、脳がどう情報を結びつけ、どうやって引き出せるかという視点での話なのですが、なるほど、という感じがします。

よく本を読んでいて思うのですが、学者や物書きの人は、あえて物を難しく、そしてもっともらしく書く傾向にありますよね。まあ、職業柄確信犯的にやっているのでしょうが。。私たちは、その専門用語に惑わされがちですが、結局人間が活動している中で生まれている事象の多くは、大半が昔からあったことであり、抽象度を上げて考えると、「あぁ歴史は繰り返されているな」と思う事が少なくありません。

この欲望はそもそも何だろうか?

この行動はそもそも何だろうか?

フローな情報をそのまま食べ続けていても情報メタボになってしまいます。

抽象度を上げ、シンプルに考えることで、自分なりの視点を身につけたいものです。



Biodiversity(生物多様性)に学ぶ、多様性許容の重要性

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最近心酔しているとある方がおりまして、お話するたびに色んな事を勉強させてもらってるんですが、今日はその中の一つ、生物多様性って何だ?ってお話です。

・ ・ ・ ・ ・ ・
昨年10月に名古屋で生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)というものが開かれました。(恥ずかしながら、私はこの会議の存在すら知らなかったのですが・・・)そして生物多様性普及サイトがこちら。

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「地球にやさしい」って何?


人間とは不思議な生き物で、環境を壊しては守り、動物を殺しては保護し、そういう行動ってのはそもそも何なんでしょうか?「地球にやさしい」ってワードを良く耳にしますが、私はこの言葉があんまり好きじゃないんです。環境問題ってのは、「人類を中心としての環境問題」であって、私たちが継続的に繁栄していけるための問題なわけですが、それは「地球にやさしい」んではなく「人類にやさしい」んですよね。ぶっちゃけ地球自身は恐竜が滅亡しようが、人類が滅亡しようが知ったこっちゃないわけで(笑)

絶滅危惧種ってのが沢山いて、よくニュースになっては保護活動が生まれたりしてますが、実は私はこの理由が本質的には分かっていませんでした。イリオモテヤマネコがいなくなることで人類にどう影響するのか?「絶滅しそうだから、さあ保護しよう!」という弱者救済的な気持ちよさだったりする?とか、多少穿った見方でみちゃってました。食物連鎖の実感が希薄だったんですね。

しかし、COP10のすばらしい(本当にすばらしい)映像群を見ていたら、この辺の気持ち悪さがとてもクリアになりました。いやいや美しい。

地球生きもの いのちつながり〜生物多様性
http://biodiversity.me/tunagari/195
※なんでyoutubeじゃないのToT;

多様性を認めることの重要性


このように生物多様性とは、人間にとって害を及ぼすかどうかで不必要だと判断するのではなく、巡り巡って支え合って生きていることを理解する必要があります。そしてこれは人間同士の関係性においてもとても重要なことだと思うのです。

宗教や民族の違いに起因する争いは歴史的に繰り返されていますが、人間同士の争いというのは、多様性の許容に解決の糸口があるように思います。また、私たちの暮らしや価値観は昭和の時代と比べ、もの凄く多様化しているので、経済活動においても多様性を認めることの重要性が日々高まっているわけです。

インターネットの本当の凄さ


私はインターネットの最大の強みは、時間と距離を限りなく0にできることだと思っています。(冒頭の心の師匠は「インターネットは時空を超える」と表現していましたが。)検索が無ければ図書館で莫大な時間を費やさなければ知る事ができなかったこと、コミュニティサイトが無ければ到底出会うことが出来なかった、遠く離れた場所にいるあの人。それが最大の強みだと思っていました。

しかし、もう一つ、「多様性の許容」というのがメディアとしての強みなのだそうです。マスメディアは時間や紙面の都合上、どうしても限られた量の情報しか流せない側面があります。ですが、インターネットは制限がない、これが他メディアからすると革新的なのだと。

分かっていたようなことですが、改めて言われると、なるほどなあと思います。

ネイチャーテクノロジーこそクールジャパンだ!


さて、最後に生物多様性の話に戻りますが、個人的に一番刺さったのはこの動画。

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トンボの羽をヒントにしたマイクロ風車、ワクワクしますね。

ネイチャーテクノロジーとは、テクノロジーにどうやって自然観を取り戻すか?ということだそうですが、石田秀輝教授はこの動画の中でこのように言っています。

日本人は今も心に自然観を大事に持っている珍しい民族なのです。ですから、テクノロジーに自然観を取り入れたものが最も受け入れられるのは日本人であり、それを世界に輸出することで日本人は尊敬されるようになるのではないでしょうか。
おー、なんともクールジャパンじゃないですか!?

グローバル化が進む中で、こういうクールジャパンな発想が、ビジネスとしても競争力のあるものだと確信します。

学生へ捧ぐ、「悩みすぎない」のススメ

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以前の私のこんなしょーもないtweetにわれらが師匠えとじやさんがこんなエントリーを書いてくれました。

雪山でまた考えた 〜不惑と知命のはざまだし。 - えとじや お。

なんと!雪山でまた、、、ありがとうございます(笑)さて、せっかくなんでこのとき考えていたことを僕もブログに書きたいと思います。

・ ・ ・ ・ ・ ・

最近の学生って大変ですよね。

今春の新卒の就職率は7割を切って過去最低水準の見込みだとか。

メディアでも色々取り上げられていますが、色んな人がそれぞれ色んこと言うし、正直どうしていいか困っちゃうんじゃないかな。例えば、週刊ダイヤモンドの就活特集宮台真司さんは「適職という幻想を捨て去る仕事はただの糧と腹をくくれ」と言っていたり、逆に堀江さんは「就活なんてやめてやりたい仕事を見つけろ」と言っていたり。

でも、自分がどうだったかって思うと、新卒の時なんて何も考えてなかったですよ。。仕事は仕事だし、でかいとこ行きゃいいのかな。くらいなもんでした。(周りもまあそんな感じでした)

ところがですね。実際社会に出てみて、働き始めたら、仕事って「割り切ってやる」ほど小さな問題ではなかった訳ですね。これだけ自分の人生の多くを占める「仕事」というものに、やりがいを見いだせなかったら本気でヤバいって思い始めたんです。24,5の頃ですかね。

そこから、自分のやりたいことをひたすら悩み続け、はや十余年。。

えとじやさんが、大手企業をやめ、独立を決めたのは、そういう決断の転機って何なんだろう?
「不惑の年」の話を聞いた日は、そんな気持ちだったんだと思います。

もし、このエントリーが学生の方に見ていただけるのであれば、僕はこう言いたいのです。

結局、二十歳そこそこで、どれだけ悩んだところで、正しい答えなんて出るわけ無いんです。40歳になるまで頑張っていれば自ずと答えがでるから必要以上に焦るなと。

脳科学にも詳しいヤフー株式会社COO室室長の安宅和人さんの「イシューからはじめよ」という本の中で、こういう事が書かれています。

良いイシューの3条件の一つとして、「答えが出せる」ものでなければならない。答えが出せないことについて考えるフリをすることは、ただ「悩んで」いるだけで、「考える」こととは明確に違うのである。(本書から意訳して記載してます)

要するに、自分がどんな仕事をやりたいか考える事はもちろん重要なのですが、答えが出ない領域まで必要以上に悩む事はやめたほうがいい、という事です。どうせ10年以上答えは出ませんから。

そして、その事をこのさとなおさんのエントリーを見て、ふと思い出したわけです。
「人生で何をやりたいか」が決まるとき - さとなお.com

ちなみに、この本は非常に示唆に富んでいるため、きっと今後もブログにちょくちょく出てきます!

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」
著者:安宅和人
販売元:英治出版
(2010-11-24)
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